夜、百子は微かに聞こえる軋みに目を覚ました。

 それは二段ベッドが揺れる拍子に立てる音だった。最初は地震なのかと思ったが、それにしては途切れがちで細々としている。

 百子は揺れの正体を探ろうと、ベッドの上に横たわったままじっと耳を傾けた。すると軋みの後に続く声が聞こえてき、寝ぼけていた百子の意識を目覚めさせる。

「はぁ……んっ…」

 躊躇いがちで、ひそやかな恥じらいを含んだ声。

 百子は気づいた。この揺れは下の寝棚から伝わる振えなのだと。この軋みは下にいる保美が鳴らしているのだと。

 声はくぐもっていた。振えは奇妙に同じリズムを辿っている。

 それだけで充分だった。それだけで今、保美が何をしているのか百子にはありありと思い浮かぶことが出来た。シーツを頭まで被り、息をひそめて、寝巻きの中に手をすべらし、そっと動かす。やがて指だけでは物足りなくなり、知らず知らず脚の間を擦らせ、腰を揺らし――終始、あの人を想いながら。

 これらのことが百子には容易に思い浮かぶことが出来た。なぜならそれは自身の経験でもあるのだから。ただ想う人が違うだけで。

 百子は落ち着かない気持ちになった。不可抗力でありながらも他人の秘め事を覗いていることに罪悪感を感じる。目を背けようにもここには暗闇しかない。それに気配が伝わってくるのだ。保美の手の動きが、徐々に荒くなっていく息遣いが。ひしひしと。百子はその気配に身体も意識も縛られる中、考える。保美の頬は火照っているのだろうか。瞳は潤んでいるのだろうか。百子が来る夜も来る夜も夢想する保美の表情。それが今、すぐ下にあるのだと思うと堪らなくなる。

 やがて湿りを帯びた音が聞こえると、ついに耐え切れず百子は保美と同じように――百子が幾夜繰り返してきた行為を始めた。シーツを頭まで被り、息をひそめて、寝巻きの中に手をすべらす。保美の情欲をはらんだ表情を想いながら。

 保美に気取られないよう彼女に合わせて上下にゆっくりと己の指を擦らせた。身体も保美と伴うように揺らし、漏れ出る声も保美の嬌声に紛らす。保美と一体となるかのように。保美と身体を重ねるかのように。

 だけど保美のことを想えば想うほどに心の中に現れるのは梢子であった。梢子が頬に手を置き、顔を近づかせる。薄く微笑んでいる梢子の瞳に映っているのは頬を火照らせ、瞳を潤ます保美の顔。その理由を百子は痛いほどわかっていた。今、自分は保美が想う光景を視ている。なぜなら百子が願う保美の表情を引き出すのはいつだって梢子なのだから。入学式の日から微笑ませるのも悲しませるのもいつだって――

 百子はそれを見ているしかない。

 梢子の口づけを保美は――百子は黙って受け入れた。軋みが僅かに激しくなる。梢子の指が脚の間に伸び、触れた。液がしたたり、指を浸す。思考を掻き混ぜる。自分の心は誰を抱いているのだろう、誰に抱かれているのだろう。わからなくなる。

 声を押し殺すために百子はマットレスに顔を押し付けた。しかし下の寝棚には届かない。二人の間の縮まらない距離。決して伝わらない熱。ただこの揺れだけで、軋みだけで保美を感じるしかない。そして、それらもいずれは。


362 :軋みラスト:2008/09/02(火) 17:38:52 ID:kXsNpHvG

「んっ……あぁ…しょう、こせ……」

 一際大きい啜り声が聞こえてきたかと思うと、ぴたりと揺れは止まった。百子の心を支配していた保美と梢子も消え去り、静寂だけが残る。しかし百子は相変わらず身じろぎ一つ取れず、寝巻きに手を忍ばせたまま息を呑んだ。保美がそっと百子の様子を伺っている気配を感じた。

 気づかれたのだろうか。

 保美が囁き声で問いかける。「……百ちゃん?」

 しかし百子は口を閉じて、答えなかった。

 そのまま永遠とも思えるような時が流れるも、保美が身を起こす音で静寂は破られた。百子はますます身を硬くした。だが保美がドアノブに手をかけ、扉を開いては閉じ、その足音が遠のくのを見守ると、ようやく溜息をついて緊張をほどかした。額に滲んだ汗を拭おうとして自身の手が汚れていることに気づく。手を洗いたかったが保美と鉢合わせになることは避けたかった。

 仕方なく、一人取り残された部屋の中で百子は考えた。明日、保美の顔をまともに見れるのだろうか。梢子のことも……。

 けれどそうするしかないのだ。今更保美の傍を離れることなど考えられない。

 大丈夫、何も変わらない。百子はそう自身に言い聞かせた。今夜もいつもと変わらぬ夜だ。百子が保美に恋焦がれたいつもと同じ夜。保美が誰を想い、何をしたのかは忘れてしまおう。自分さえ忘れればそれで良い。そして朝になれば大きな声でおはようと言えば、誰も気づきはしない。

 ――そうするためにも保美のいない今の内に涙を出し切ろう。


 しかし涙を流しても、軋みは長い間、耳から離れなかった。