163 :共有1:2008/07/26(土) 19:43:33 ID:m/bOY0Fy

 時刻は宵を過ぎたばかり。心地よい気だるさに包まれながら維巳は歩く。

 何度も廊下を曲がり、部屋と部屋を越えて、屋敷の奥深くへにある自室へと。足を進めるごとに見慣れた家具や畳のほつれが目に飛び込み、生活の音から切り離されてゆく。父が書斎で本をめくる音も、母が夕食の後片付けをする音ももう聞こえない。

 代わりに耳から流れるのは波の飛沫。屋敷を揺らす嵐の前兆を告げる風。魔多牟の遠吠え。出せと出せと。ここから出せと。維巳は身震いした。唐突に屋敷から飛び出したい衝動が起こるも、そうする訳にはいかなかった。部屋には維巳と入れ替わり、一日を閉じこもっていた双子の片割れがいるのだから。維巳は声から逃れるためにも足を速めた。

 目的地へと繋がる襖を開けると、声をかけられる。

「おかえりなさい」

 床には既に布団が敷かれており、その上には維巳とそっくりの顔と髪型、そして服に身を包んだ保巳がいた。

 維巳は襖を閉めて、答えた。

「ただいま、すみちゃん」


 維巳が近づくと、保巳はその手を取って、迎え入れる。

「ねえ、今日は何をして遊んだの?」そして維巳が隣に座ると、瞳を輝かせて問いかけた。

 誰と、とは言うまでもない。維巳の遊び相手は保巳以外には一人しかいないのだから。

 維巳は今日のことを振り返り、知らず知らずに頬を緩ませながら語った。「あのね……」

 出来事自体は昨日保巳が話したことと、維巳がここ数日体験したそれの繰り返しだった。梢子と手を繋ぎ森を歩き回り、梢子の稽古姿を眺め、木陰で話し合い――しかし維巳には全てが新鮮だった。家族以外の誰かとこんなに楽しく過ごせるなんて数日前の自分には想像も出来なかった。

 興奮のせいか維巳の言葉はたどたどしく、思いつくまま話すために順序もばらばらだった。しかし保巳は何度も頷き、真剣に聞いた。保巳はいつだって維巳が言わんとすることを理解してくれる。維巳もしかり。なぜなら二人は同じ肉体と魂から分かれた双子なのだから。

 それに、本当は言葉は手段に過ぎない。維巳は感じた。保巳の手が絶えず維巳の手を摩っているのを。ちょうど手を繋いだと、維巳が話した時からずっと。それだけではなく、梢子が微笑んだと言うとじっと維巳の瞳を見つめた。梢子との会話を語ると維巳の耳に自身の耳を寄せ――まるでそこから梢子の声を聞こうとするかのように。

 やがて言葉すらいらなくなる。維巳の声が途切れた。保巳の唇に塞がれて。

 吸い取られてる、と維巳は思った。言葉が吸われ、維巳の脳裏にうずまいていた梢子との今日が保巳に曝されると。

 保巳の手が降りる範囲が広がった。梢子と同じ土を踏んだ足に。手を繋いだ拍子に擦れた腕に。梢子の吐息を感じた頬に。絡み合った髪に。そして、梢子を思って鼓動を鳴らした胸に。維巳が敢えて語らなかったことも含めた全ての出来事をなぞる。

 維巳は息を呑んだ。侵される。維巳の梢子との思い出が。奪われてゆく。梢子の熱が、汗が、残り香が。

 保巳の手が維巳の下腹へ伸びるとついに啜り声をあげた。そこは維巳がもっとも強く梢子を感じた部位だった。じくじくと疼く。梢子を思ってか保巳に触れられてか、維巳にはわからなかった。


164 :共有ラスト:2008/07/26(土) 19:44:20 ID:m/bOY0Fy

 気がつけば触れ合うようになった。始まりは保巳の方だったと思う。入れ替わりを提案したのも、触れだしたのも。

 維巳は戸惑いながらも受け入れた。維巳も感じたかったのだ。梢子という名の初めての他人を願わくば毎日。

 維巳が梢子と会った日は保巳が、保巳が梢子と会った日は維巳が――替わる替わる触れ合う日々に、思い出を共有する日々に不満があるわけではなかったのだけれど――


 不意に聞こえてきた音に維巳は身を縮ませた。父か母かと思ったのだが、足音ではない。また聞こえてくる。身体の奥まで届く振動が。鳴き声が。

 ああ、魔多牟の声だと維巳は気づいた。狭いここから出せと、また鳴いている。それは儀式の近づきを告げる音でもあった。物心ついてから毎年維巳はその声で自身の境遇を再認識する。今年は、特に。

 保巳には聞こえてないのだろうか。維巳の下腹を撫でる手は止まらない。維巳は思わず腰を跳ねながら、自身の死の後を考えた。梢子は維巳が消えたこともわからないだろう。維巳という存在がいたことも。今は『つなみ』という名を呼んでも、それもいずれ忘れるはず。そして維巳との思い出は保巳と体験したものだと思うようになり――

 この日々に、根方の長子としての運命に不満があるわけではない。保巳ではなく、自分が贄で良かったと思う。

 けれど。

 維巳は魔多牟の鳴き声に紛れて嗚咽を漏らした。梢子が維巳を忘れること、それだけは悲しかった。


「つなみちゃん?」

 呼ばれて我に返る。梢子が心配そうな顔で維巳を覗き込んでいた。不意打ちの接近にうろたえるも、心を落ち着かせて答えた。「大丈夫」

 最近寝不足が続いて、と言い掛けて維巳は頬を火照らせ黙った。昨日は保巳に一晩中触れたのを思い出したのだ。梢子は維巳の様子に首を傾げ、ふと維巳の後ろに視線を移した。その途端、影が二人を覆い、維巳は見上げて思わず悲鳴を上げそうになる。

 影の正体は父だった。厳しい顔をした父がじっと二人を見下ろしている。維巳の背筋に冷や汗が流れる。父は双子が入れ替わっているのを知らない。もし今、父が妹の名を呼んだら全てが終わる。しかしそれを防げば今度は維巳が禁を犯していることが知れてしまう。

 どうすることも出来ず、維巳は脅えながら父を伺うしかなく、ついに父は唇を開いた。

「維巳」

 安堵は来なかった。見透かされているに維巳の脅えはますます酷くなる。

 それに父の鋭い眼差しが告げていたのだ――儀式はもうすぐだ。今日が、最後だと。

 それ以上は何も言わず父は二人を通り越し、いずこかへと向かった。その背が遠のくを維巳はじっと見守った。

 父が言わずともわかっている。終わりはもうすぐだ。維巳が梢子の前から消える時まで。

 だから、その前にせめて……維巳は代わりに屋敷へと残った保巳に詫びる。今だけ、ほんの少しだけ二人きりの思い出を作ることを。

 維巳は梢子の方へと向き合い、少し躊躇ってから言った。

「ねえ、梢子ちゃん。常咲きの椿の森に祠があるの。今からそこに一緒に……」 

 ――妹の笑顔が脳裏に一瞬だけ翻り、消えた。