362 :初恋。:2008/06/15(日) 21:25:37 ID:+HBT/T8R

小山内家の朝は早い。

仁之介さんはお年故か早起きだ。

梢子もまた、朝練のため早起きをする。

叔父さん叔母さんはいたって普通だが、朝のスケジュール管理もしてあるのか、短時間で無駄なく準備を行い出勤してゆく。

この家で朝が遅いのは私だけだ。

私は鳴海夏夜。小山内家とは近い親類関係にあたる。

複雑な事情の末、この家でやっかいになっている。


今日もまたひとり、悠々自適とばかりに遅い朝を迎えた。

家はしんと静まりかえっている。キッチンには梢子の作った朝食が、ラップを掛けて置いてある。

ぺたぺたと足音を立て、伏せたお茶碗へご飯をよそう。

梢子の友人が、ふわふわですと言っていたのを思い出す。

「ふわふわです」

ちょっと口に出してみた。可愛い響きだ。梢子に聞かれなければ、たまに使ってみてもいいかもしれない。

「いただきます」

誰も居ないテーブルに手を合わせ、朝食を頂く。

半刻ほど食後休みを取り、庭へ出て素振りを行う。

もう使うことは無いのかもしれないが、覚えた技が鈍る不安に、私は毎朝稽古を続けていた。


そして仁之介さんの開いている整骨院へ出勤する。

重役出勤とはまたいいご身分だなと、仁之介さんに嫌味を言われる。

申し訳ありません。いつもの如く謝って、今日の仕事を仰せつかる。

私はまだ新米で、ずぶの素人で、雑用しかさせてもらえない。

部屋の掃除。器具の整頓。電話の対応。そんなところだ。

空いていれば、仁之介さんに指圧の手ほどきをして貰える。

針は専門学校へ行けと言われた。基本を覚えたら免許を取るためにも学校へ通わなくてはならない。

私の銀行預金はまだ健在で、幸いにも授業料には困らない。

久しぶりの学校生活。少し楽しみではある。


夕刻になり、他の学生よりも遅く、梢子が帰ってくる。

今日初めての梢子だ。

私はこの子を愛している。一年前のこの子とは姿形がまるで違い、違和感が無いとは言わない。

だがその違和感が新鮮な驚きとなって、私の心にさざ波を立てていた。

幼いこの子。今のこの子。私はその時々によって違う顔を見せる梢子に惹かれていた。

手足も長く伸び、女性らしい曲線を身に着けた彼女は、とても魅力的だ。

友人の一人、相沢保美という少女も梢子を好いているらしい。

たまに見せる敵意が可愛らしい。


鬼と成って良かった。

人に聞かれたらならきっと悲しい顔をされる事を、私はそっと心に想う。

人として生きていたのなら、例えあの忌まわしい事件が起きなかったとしても、私が梢子を好きになる機会など無かった。

今頃は誰かを愛し家庭を持ち、幸せに過ごしていたのかもしれない。

あの子もまた私の知らない男を好きになり、やがては子を身ごもり、そうしてごく平凡だが価値のある幸せを手にするのだろう。

幸いにも、今私は梢子の隣にいる。

姉と妹……というより、母と子に近い関係だったあの頃には、到底考えられなかった関係を築けるチャンスがある。

あの子も私を意識してくれている。

突然現れた姉に動揺しているだけなのかもしれない。

でも今は、その動揺を利用させて貰おう。狡いと言われるかもしれない。だが、あの子の隣が手に入るのなら私は。


「おかえりなさい」

私は私に出来る精一杯の笑顔を返す。

「ただいま。夏姉さん」

あの子が屈託のない笑顔を向けてくれる。今はまだそれだけでいい。でもいつかきっと……。