「はぁ、今日もいい天気だね…」
庭に出て照りつけて来る日差しに目を細めながら、あたしは一人ごちる。
季節は夏。
風に揺れる木々からは虫の鳴き声が響き、乾いた土の匂いが鼻をくすぐる。
見れば庭の草木もだいぶ成長して、屋敷の敷地からはみ出そうとしていた。
…そろそろ草刈しないといけないか。
毎年の事だが、汗だくになって鎌を振る自分の姿を想像すると、朝から気分が沈む。
気を取り直し一つ首の骨を鳴らすと、屋敷に戻り台所へと向かう。
そろそろあいつも起きる頃だから、朝飯を作ってやらないと。
残り物の御飯に野菜と卵を加え、簡単なお粥を用意する。
塩気が効きすぎないように気を使うが、あいつは味なんてどうでもいいのだろう。
上手い、不味いの感想以前に、ここ何年も…言葉を喋っていないから。
火傷しない様、慎重に粥を持ち、あいつの居る部屋に向かう。
二人で生活するには広すぎて、何かと不便な経観塚の屋敷だが、
此処のゆったりとした空気は静養するのに丁度いい。
そして何より、全てを失ったあいつが唯一つ、此処に居ることを望んだのから…。
廊下の一番奥、日の光が届かない戸を静かに開ける。
暗い部屋の中に広がるのは、何時もと同じ、見慣れた光景。
部屋の中心に敷かれた一枚の布団、その中で…あいつは目を開けていた。
じっと天井を見つめる瞳。
普段からこんな調子だから、夜にしっかり寝ているのかさえも分らない。
身に着けた白い浴衣が、どこか死装束に似ている。
「何を考えてんだ、あたしは。縁起でもないね…」
頭をよぎる不吉な思いを振り払い、軽く息を吐くと床に座りこむ。
体を覆う掛け布団をそっと除け、笑顔で声を掛ける。
「おはよう烏月、朝飯だよ」
「ほら、烏月。口開けな」
「………………」
布団の上で上半身だけを起こした烏月を片手で支え、床に置いた、
出来立ての粥をレンゲですくい、その口元に運ぶ。
虚ろな瞳、痩せこけた体、艶の無い髪…昔のこいつからは想像もつかない、今の無残な姿。
「早くしないと、冷めちまうよ」
何度か促すもその口は微動だにせず、
溜息をつきながら、あたしは一度レンゲを下げる。
「まったく、毎度ながら世話の焼ける奴だね」
湯気が消えた粥を自分の口に含み…軽く噛んだ後、烏月の顔を持ち上げ、そのまま唇を重ねる。
閉じている歯を舌で無理やりこじ開け、口内の粥をその口に流しこむ。
「…ん…むぅ…んぐっ、ぅ、ぁ…」
喉を見て、しっかりと飲み込んだ事を確認した後、口を離す。
「…ふぅ、飲み込めるなら自分で食べな、と言いたい所だけど、そうもいかないか…」
同じ愚痴をもう何度くり返したか、自分でも呆れる。
そして、同時に浮かぶ、幾つかの疑問。
…あたしのやってる事は、無駄なのか?
…こいつが元の、昔の烏月に戻る事はあるのか?
…生きる事を望んでいないのなら、いっそ死なせてやった方が幸せなんじゃないか?
愚痴と同じだけ繰り返してきた疑問。
答えの出ない疑問。
「烏月、あんたのその瞳は、何処を見ているのさ?」
…返事は無い、当然か。
粥を再び口に含み、烏月の口に移す。
前のあんたなら、こんな事…死んでも嫌がっただろうに。
「…う…ぐぅ…、んむ!がっ、ごほっ、あ…はぁ…ぅ」
むせ返った烏月の背を慌てて撫でる。
「大丈夫かい?ほら、落ち着いて、ゆっくり息吸って」
まるで生まれたばかりの鳥の雛、餌をやる親鳥の苦労が少し解った気がした。
あの日、桂が死んだ…。
白花との戦いで気を失った私が、目を覚ました時に聞いた声。
「桂さん、あなたと結んだ絆は、この程度じゃほどけはしないよ…」
嫌な予感に痛みを堪え、声のした方に駆けつけた、あたしが見た物は…信じられない光景だった。
…首の無い桂の体、辺り一面に広がった血の海、その中で、自らの首筋に刃を当てた烏月…、
何が起きたのか分らない、だがそれを見たあたしは、体の痛みも忘れて飛び出していた。
「烏月いぃいいぃっ――――――!!」
横殴りの拳打がその体を捉え、屋敷の中まで吹き飛ばす。
手加減など一切ない全力の一撃。
烏月の手から維斗がこぼれ落ち、地面に突き刺さる。
「サクヤさんっ!止めてください!」
ユメイが何か言ったが、構わずあたしも屋敷に突っ込む。
漂う埃を掻き分け、障子の残骸と共に倒れている烏月を見つけると、
あたしはその首を掴んで壁に叩きつけた。
「答えなっ!何で桂を斬った!?」
「がっ、ぐぅうぅぅ…」
「何で、お前が桂を!桂を斬ったあぁ!!」
「サクヤさんっ!」
叫び声が聞こえた瞬間、脇腹に衝撃が走り、あたしは床を転がるに吹き飛ぶ。
「くっ、ユメイ、邪魔すんじゃないよ!」
体勢を立て直すと、烏月を守る様に立つユメイを睨む。
「サクヤさん、聞いて下さい!烏月さんが桂ちゃんを斬ったのは、理由があるんです!」
「理由だと?何だい、言ってみな!そいつがいかれたって訳じゃないだろうね」
「違います!桂ちゃんは、桂ちゃんには…主が、主が憑いていたんです…」
「………なっ、…そんな。ははっ、そんな事、嘘…嘘だろ!なぁユメイ!?」
否定の言葉は無い、あったとしても現実は変わらない。
小刻みに震え、その頬を涙で濡らすユメイの姿が、希望の一片までも奪い取っていく。
急に全身の力が抜け、あたしは床に崩れ落ちる。
また、大切な人が…いなくなってしまった。
沈黙が流れる。
辺りに聞こえるのは、ユメイのすすり泣く声のみで、
時が止まった様に、あたしは動けないでいた。
桂を、あのままにして置けない…、そう思うも、体に力が入らず立つ事ができない。
いや…そうじゃない、本当は桂を、現実を見たくないだけだ。
見てしまえば、認めてしまえば、何かが…壊れてしまいそうだから。
長い静寂を破ったのは、烏月が立ち上がる音だった。
あたしとユメイに背を向け、足を引きずりながらも、庭へと下りて行く。
…そうだ、あいつに、烏月に謝らないと。
鬼切りとして鍛えてるとはいえ、あたしの全力の一撃を受けて無事な筈がない。
動かない足に喝を入れ、ふらつきながら立ち上がる。
烏月…いけ好かない奴だったけど、今、一番危ういのはこいつだ。
最近の桂との様子を見ていれば、二人が特別な関係だった事ぐらい、簡単に分かる。
(桂さん、あなたと結んだ絆は、この程度じゃほどけはしないよ)
目が覚めた時、確かに烏月はそう言っていた、そして刀を自分の首に…首?
「まさか、あいつ!」
急いで庭に下りると、地面から抜いた維斗を手にする烏月の姿が見えた。
そして躊躇うことなく、再び、刃を首筋に…、
「この馬鹿っ!!」
背後から駆け寄り、刀身を素手で掴む。
振り向く烏月…その目には絶望と狂気が宿っていた。
「サクヤさん、離してっ、離して下さい!」
「ふざけんじゃないよ!あんたが死ねば、桂が喜ぶとでも思っているのかい!?」
暴れる烏月を取り押さえる、刀を握った手から血が飛び散るが、気にしてられない。
手の平がズタズタになりながらも、何とか維斗を取り上げ、遠くに投げ捨てる。
「あぁっ、うぅ、いっ、維斗おぉっ」
尚もそれを、這いずりながら追おうとする烏月の体を組み伏せ、腕を取って間接を極める。
「ぐうぅ!離せぇ、離してくれっ!!」
「あんたが辛いのは解る、でも死んでどうするのさ!死んじまったらそれで…それで終わりなんだよ!」
桂の笑顔が頭をよぎった、すまないねぇ、守ってやれなくて…。
でも、もうこれ以上、桂を悲しませたくないから、だからあたしは、烏月を止める。
「死にたい程辛いのは、あんただけじゃないんだ!まだもがく様なら、手足をへし折るよ!!」
冗談ではない、今のこいつは、その位しなければ止まらないだろう。
「っぐぁあ!桂さん、け…い、さ、うっ、ぁ、ぅ…うあああぁあぁあぁあ!!」
烏月の絶叫が胸に突き刺さる。
…ぐったりとその体から力が抜けたのを見て、あたしは手を離す。
取り合えず、もう馬鹿な真似はしないだろう。
嗚咽に震える烏月を抱き起こすと、目に宿った狂気は既に霧散していた、がその代わりに…光を失っていた。
虚ろな眼差しであたしを見ながら、何事かを呟く。
「…死ねないのなら…殺して…私を…殺して…殺して…殺し…て…」
操り人形の様に、同じ台詞を何度も繰り返す。
…この時、烏月が壊れた。
肉体ではなく、心に刻まれた深い傷跡。
それは永遠に癒える事のない…あたしが何度も味わった痛み…。
桂の葬式が終わった。
鬼切部の力でその死因は事故として扱われ、葬儀は経観塚の屋敷で静かに執り行われた。
片田舎だというのに、式には学校のクラスメイトが大勢集まり、
中でも一人の女子生徒が大泣きして、落ち着かせるのに苦労した。
名前は確か…奈良陽子だったか。
ユメイは桂が死んだ日以来、その姿を見せないが、
御神木の封じの力は、前より数段強力な物に変化していた。
己の意識を抑え、ひたすら主を還す事に集中する、それが…ユメイの償いなのかもしれない。
そして、一人残された烏月に対する千羽党の扱いは、あまりに酷な物だった。
「残念だが、鬼も人も斬れない鬼切りは…千羽に必要ない」
それが千羽党の本家で、話し合った末に出た結論。
頭にきたあたしは、持ってきた維斗を叩き返し、烏月を連れて本家を飛び出した。
「…さてと、これからどうするかね」
宛もなく車を迷走させながら、助手席を見つめる。
塞ぎこまれた方が余程マシ…そう思える程、無表情な烏月。
最近は口数もめっきりと減り、呼吸しているのさえも怪しく思える。
「あんたさえよけりゃ、普通に学生として生活する事も出来るんだよ?
生活費とかは、あたしが何とかしてやるし…」
「…サクヤ…さん、帰りましょう…桂さんのいる…あの屋敷に…」
まさか返事が返ってくるとは思わず、慌てて車を路肩に停車させる。
「烏月、あんたっ」
「…………………」
「そう、そうかい。なら、帰ろうか…経観塚へ」
異論はなかった。
今は、少しでもこいつの好きな様にさせたい。
…明けない夜はない、そんなありふれた言葉でも信じれば、何時かはこいつの闇も晴れるのだろうか。
そんな疑問を抱きつつ、あたしは車を発進させる。
先の見えない夜道を照らす、微かなヘッドライトの光。
烏月を照らす光は、まだ見つからない…。
「あれから、何年経ったのか。もう忘れちまったね…」
朝飯を食べ終えたあたし達は、庭の縁側で日に当たっている。
今年が何年か確認する方法などいくらでもあった。
けれど気にする必要がない以上、それは無意味な事でしかない。
熱い日差しに照らされた、烏月の青白い顔を見つめる。
「あせらなくてもいいんだ。大切な人が死んで、自分だけが残されてしまう、
それがどれだけ辛い事か、あたしにはよく解るから…」
手を伸ばし、烏月の髪を、指で優しく梳く。
「いくら時間が掛かってもいいさ。これは自分で乗り越えるしかない事…、
あたしは、その手助けしか出来ないけど、あんたの一生分くらいなら、つき合ってやるよ」
「………………」
「ははっ、合いの手も無いんじゃ、独り言と変わらないね」
烏月が少し身震いをする。
見れば額が僅かに汗ばんでいた。
少し日に当たり過ぎたか…。
「さ、布団に戻ろうか。よっこらせっと!」
細い体に手を回して、その体を抱き上げる。
すると無意識の行動か、烏月も手を回してあたしの首に抱きついてきた。
「おっと、何だい?心配しなくても落としゃしないよ」
軽口を叩いて、そのまま部屋に移動する。
開けっ放しにした戸をくぐり、腰を屈めて烏月を布団の上に下ろす。
「あん?どうした烏月、もう離していいんだよ」
そう言うが首に回された手は外れない、それどころか、力を込めて頭を下げさせ様とする。
戸惑うあたしの顔に、烏月の顔がゆっくりと近づき…、
いきなり唇を塞がれた。
「んぁ、ん…ぅ…はぁ、あぅ…ぁ…む、ぷあっ」
息が続かなくなる程の長い口付けを終え、烏月がやっと唇を離す。
…また始まったか、食事と睡眠以外に、もう一つだけ烏月が自主的にする行動。
それは…あたしと肌を重ねる事。
きっかけが何だったかは覚えていないけど、一度受け入れてしまえば、後は簡単、
むしろ烏月が自分で何かをする、その事だけでも…あたしには嬉しかった。
「こら、そんなに焦るなって」
纏わりついてくる手をあやし、浴衣の帯を解いていく。
薄い布の隙間から覗く烏月の裸体。
痩せてはいるが昔より成熟した大人の肉体は、今でも十分に魅力的で、
病的にまで白い肌の中で、桜色の乳首が期待に硬くなっていた。
「綺麗だよ、烏月」
「…ぅ…ぁ…あ…」
その手が頼りなげに頬を触れた後、上着の肩紐に掛かる。
「なんだ、あたしも脱げって言ってるのかい?」
返事はないが、肩紐を外そうとする指の動きが答えの様だ。
一度、烏月から離れ手早く服を脱ぐ。
「いつもいきなりだから、ムードも何もないねぇ」
脱ぎ終えた服をまとめて脇に除け、布団に横たわると、烏月がさっそく抱きついてきた。
普段は生気の無い目も、この時だけは艶かしい光を放つ。
胸に顔を埋め、足を太股の間に割り込ませながら、必死にその体を密着させようとしてくる。
「…ぅ…あぁ……ぁ…」
心を閉ざしていても、いや…いるからこそ、人の温もりを求めるのか。
その手段として、今している事が正しいかどうかは分からない。
でも、こいつが望むなら、あたしは何だってしてやる。
桂への償い…最初はそう思っていたが、今はもう違う。
あたしは、烏月が好きだ。
この肌に触れている存在を、心の底から愛しく思う。
だから、必ず救ってみせる、どれだけ時間が掛かろうと…必ず…。
烏月の首筋に舌を這わせ、ゆっくりと舐め下ろす。
鎖骨のラインから形の良い胸の膨らみをなぞり、硬くなった乳首を弄る。
「…あっ…ぁ…んぅ…ひっ…」
微かに変化する烏月の表情に、笑みがこぼれる。
何であれ無表情よりは余程いい。
その変化を楽しみながら、あたしは胸を責め続けた。
舌を尖らせ乳首を何度も突いた後、口に含んで軽く甘噛みし、
もう一方の胸も、手の平でこねる様にもみ上げ先端を指で抓る。
「あぅ…ぁ、うぁ…ひっ、はぁ…」
太股が烏月の淫液で濡れていく。
滑りのよくなった足を曲げて、膝を割れ目に擦りつけてやる。
「――――んぁあっ!」
一際大きな声を上げ、烏月の体が跳ねた。
気づけば気温もかなり上がっており、絡み合う肌から滴り落ちた汗が、布団に染みを広げる。
部屋に漂う、淫液と汗の入り混じった匂いが、あたしの理性と思考力を奪っていく。
「烏月、好きだ…大好きだよ!何でこんな気持ちになっちまったのかねぇ…、初めて会った時から、
ずっと気に食わない奴だと思ってたのに、今は、堪らなく…あんたの事が愛しいんだよ」
あたしが桂の死から立ち直れたのは、烏月がいたからだ。
心が壊れた烏月の世話をする事で、やり場の無い空虚な思いを抑えてこれた。
傷の舐め合いでもいい、あたしは唯、唯…いつも傍にいてくれる人が欲しかったんだ。
指を唾液で湿らせ、烏月の割れ目に突き入れる。
「ひぅっ!…あぁああっ―――!」
指先を締めつけてくる柔らかい肉を掻き分け、さらに深部へと指を動かす。
片手で烏月の頭を抱き寄せ、涎に光る唇を貪る。
絡まり合った舌を唾液が伝い落ち、溜まった物は次々と飲み干していく。
割れ目を突く指の動きを加速させながら、一度口を離し、烏月の顎、頬、額を順番に舐める。
塩辛い汗の味が舌に心地よく広がり、高揚感が増していく…。
烏月の全てが愛しい。
「あんたの汗で感じるんだから、あたしも何処か壊れちまってるのかもね…」
自嘲気味に呟いた言葉も、響く嬌声にかき消されてしまう。
「あっ…や、やぁあ…、んっ、くぅ…」
広げた口からだらしなく舌を出し、うち寄せる快楽にひたすらよがり狂う烏月。
その姿に、無力な子供を犯している様な錯覚を覚え…体が背徳感に震える。
そろそろ、あたしも限界だ。
ひくつく烏月の割れ目から指を抜き、滴る淫液を舐めとる。
「あっ…ぁ、…ぅ、あぅ…あぅあ…」
止めないで、そう訴えてくる眼差しに、流し目で答える。
「ふふっ、物欲しそうな顔しなくても…直ぐに良くしてやるさ」
烏月の片足を持ち上げ、割れ目同士を擦り合わせる。
吸いつく様にヒダとヒダが触れあい、むず痒い快感が体を貫く。
「くはぁっ、はあっ、烏月…うづきぃ―――!」
「…あっ…はぁっ、くぁ…ひあっうぅ…」
体を激しく動かし、貪欲に刺激と快楽を求めながら、あたしの存在を烏月の体に刻み込む。
この想いを伝える為に…。
その体を包む闇を払う為に…。
何度も、何度も…。
「烏月、聞こえてるかい?あんたは一人じゃないよ。あたしがいるから、此処にいるから!」
「ひぃ、かはっ、ふぁうっ、あはぁ、ぁ…やぁ、んあぁあっ!」
淫靡な水音と、喘ぐ声が交わり、あたし達を絶頂へと導いていく。
もう…何も考えられない。
唯、待ってるから…ずっとあんたを待ってるから。
だから、帰っておいで…。
「うあぁ、いく、いくよ烏月、うづ…あぁ、はぁうっ!」
頭を白光が駆け抜けた。
「「あぁああぁあぁあっ――――――!!」」
痙攣する四肢を投げ出し、烏月の胸に倒れ来む。
脱力感に襲われながら、大きく深呼吸をして、荒い息を落ち着ける。
早鐘の様に脈打つ、烏月の心音が聞こえ…あたしは笑みを浮かべた。
こいつは、ちゃんと生きてる。
生きてさえいれば、希望もある。
「そうだろう、うづ…き?」
顔を上げたあたしと、烏月の目が交差する。
さっきまでの扇情的な瞳から…再び意思の光が消え去っていた。
まるで何事も無かったかの様に、その顔も普段通りの無表情に戻っている。
「はっ、ははっ。ちょっと、そりゃあないじゃないか。あんたは欲求を満たしただけかい。
これじゃ、いつもありったけの想いを込めてるあたしが…馬鹿みたいじゃないか…」
乾いた声が、部屋に虚しく響く。
肌を重ねる度、あたしは烏月の心に近づけているのだと、そう思っていた。
いつかはその口が、あたしの名前を呼んでくれると信じていた。
全ては、都合のいい幻想か。
昂ぶった想いは吹き飛び、心に暗い影が落ちる。
ふらつきながら立ち上がり、壁に背を預けて力無く座り込む。
「あんたは、もう十分苦しんだじゃないか。こんな風になるまで、悩んで、もがいて…」
畳に、小さな染みが広がった。
「それとも、あたしには…やっぱり無理なのかねぇ。桂の様に、あんたを照らす光になりたかったけど、
…良く考えてみりゃ、役者違いもいいとこか」
止めどなく涙が溢れる、大切な人を守れず…そして救う事も出来ない。
…あたしは、何て無力なんだ…。
「…う…ぁ……ぅ…」
微かに呻き声を出す烏月を見る。
夏でも日の光が届かない部屋の中は、少し肌寒い。
「…さてと、体…拭こうか。汗かいたまま裸でいると、流石に風邪引いちまうからね」
目を擦り、精一杯の笑顔を烏月に向ける。
外から聞こえる蝉時雨が、やけに鬱陶しく感じた…。
「ったく、経観塚の夏は熱いねぇ」
あれから数日たった後、あたしは烏月をおぶって山道を登っていた。
別にピクニックに来た訳ではない。
目的地はもう少し先に行った所にある小さな墓地、桂達が眠る…羽藤家の墓だ。
命日はとっくに過ぎていたが、とぼけたあいつの事。
多少遅くなっても、笑って許してくれるだろう。
「…にしても烏月、あんた体重幾つだい?軽過ぎておぶってる気がしないから、
途中で何処かに落としてやいないか心配になるよ」
「………………」
今日も変化なし、か。
これじゃ桂も心配して化けて出るかもね。
そんな事を考えていると、目的の場所が見えて来た、その時…、
突然、鼻をかすめた線香の匂いに、驚いて辺りを見回す。
此処には羽藤家の墓しかない、だから…あたし達以外に訪れる人など居ない筈。
気配を隠し、もしもの場合を考えて、烏月を近くの木陰に座らせる。
一人だけで慎重に歩みを進めると、墓石の前に佇む人影が視界に入った。
まだこっちには気づいていない様だが…、一体誰だ?
「ちょっと、あんた」
「うわっ、な、何!?」
声を掛けると、人影が飛び上がらんばかりの勢いでこちらに振り向いた。
若い女だ、年齢は烏月の少し下くらいだろうか。
ショートカットに切り揃えた髪と、勝気な瞳が印象的な美人。
それに加えて動きやすそうな服装が、見る者に快活なイメージを与える。
この顔、何処かで…。
「あぁ!もしかして、浅間さん?浅間サクヤさんですか!?」
名前を呼ばれて、今度はこっちが驚く。
「あ、あぁ。そうだけど、あんたは…?」
「やっぱり覚えていませんか。初めて会った、と言ってもそれが最後だったんですけど、
はとちゃんのお葬式で、お世話になった…奈良陽子です」
「奈良…陽子、奈良陽子。あぁ!そうそう、思い出したよ。
泣きながら霊柩車追っかけて轢かれそうになった子だね」
「はぅ、ま、まぁ、そうです。その奈良陽子です」
懐かしい思い出が頭をよぎる。
まさかこんな場所で、また出会う事になるとは…。
「ご無沙汰してます。それにしても浅間さん、昔と全然変わってませんね。
あれから結構経つのに、私、直ぐに分かりました」
痛い所を突かれて、顔が引きつる。
「なに、若造りが上手いだけさ。気にするんじゃないよ。それより今日はどうしたんだい?」
適当に話題をそらすが、本当に聞きたいのはこの事だ。
毎年、夏が来る度に墓参りをしているが、今まであたし達以外に誰か来ている様子は無かった。
何故、今年に限って現れたのか。
「…私、けじめを、つけに来たんです」
陽子が静かに語り始める。
「あの日、夏休み明けの学校で先生から、はとちゃんが…事故で亡くなった…って聞きました。
その時はもう、凄いショックで…頭がおかしくなりそうなくらい悲しくて…。
お葬式に行った後も、全然気持ちが晴れないまま、もう…いっそ私も死んじゃおうかと思いました」
風に吹かれた髪を押さえる陽子、その手首に、薄い傷跡が見えた。
「でも、私…思ったんです。こんなんじゃ…はとちゃんに嫌われるなって。
前にはとちゃんが、私の明るい所が大好きだって、言ってくれた事があるんです。
それ聞いた時とっても嬉しくて。だから私、はとちゃんが心配しない様に、
精一杯明るく生きようって、そう決めたんです」
胸が、痛い…この子は、なんて強いのか。
見ていて切なくなる様な哀しい笑顔を浮かべ、話を続ける。
「それから必死で勉強して、大学に入って、卒業して、今年からは社会人なんです。
とにかく明るく楽しく、はとちゃんが羨ましくて化けて出るくらいに…。
それで今日来たのは、今までの報告と、はとちゃんに…お別れを言う為」
陽子が背を向け、墓石の前に座り込む。
「私、はとちゃんの事が好きでした。友達としてじゃなく、一人の人間として大好きだった。
だから、今日まで此処に来れなかった。来てしまったら、またあの日の事を思い出してしまうから。
でも、もう逃げないって決めたんです。私は大丈夫だから、笑顔で…さよならって…いっ…うぅ…」
声が嗚咽へと変り、陽子の体が震える。
「さよならって…わらっ、あぅ…笑って、しっかり…生きていくよって、言わなきゃ…駄目で、
だめ…なのに、わたし…の、ばかぁ…。はとちゃ…、ごめん、ごめ…んねぇ、ふっあぅふあぁあぁ!」
墓石の前で、泣き崩れた陽子。
その告白の全てが、あたしと烏月に重なる。
この子は一人だけで、悩み、傷つき、それでも答えを出した。
それなのに、あたし達は狭い世界に引き篭もって、いつか起きるであろう奇跡を唯、待つだけ。
嫌気が差して来る、姫様の死も、笑子の死も、真弓の死も、…自分で乗り越えたんじゃない。
全てを、長い時が癒すままに任せて来ただけだ。
そんなあたしに、烏月を救う事など出来るのか…。
背後から聞こえた物音に振り返る。
そこには、木を支えにして立っている…烏月がいた。
「烏月…あんた、聞いてたのか?」
あたしの質問に答えず、じっと墓石を見つめるその姿に、何か違和感を感じた。
同じく振り向いた陽子が、驚きと怪訝そうな顔で問いかける。
「烏月って、まさか、千羽烏月さんですか?」
黙ったままの烏月、代わりにあたしが答える。
「そうだけど、何であんたがこいつを知ってるんだい?」
涙を拭いながら、陽子が立ち上がり、携帯電話を取り出す。
「はとちゃんと最後に話した日、その後で、留守電にメッセージが入っていて、
凄く悔しい内容だったから、保存して嫌味に使ってやろうと思ってたんですけど…」
そう言った陽子から携帯を受け取り、ボタンを押すと…懐かしい声が聞こえて来た。
<陽子ちゃん、何度もゴメンね。眠っちゃったみたいだから留守電に入れときます。
私、経観塚で大切な人が出来たの。名前は千羽烏月さん、凄く綺麗で格好いい女の人です。
今少し大変な事になってるんけど、この人に会えただけでも、実家に来て良かった、そう思ってる。
とにかく、帰ったら詳しく報告するのでその時に。それじゃまたね、おやすみなさい>
言葉が出なかった。
桂がどんな顔でこのメッセージを送ったか簡単に想像がついて、例え様のない想いが胸に込み上げる。
あたしは急いで烏月の元に駆け寄り、音声を再生させた。
「聞きなよ、あんたの事を言ってる。桂があんたの事、大切な人だって、
そう言ってるんだよ。分かるかい?」
「………………」
駄目、なのか。
もうこいつには、誰の言葉も届かないのか。
それでもあたしは、何度もその声を聞かせ続けた。
大体の事情を察したらしい、陽子も心配そうに見守っている。
この子の半分でも、あたし達に勇気があれば、全ては変わっていたのかもしれないのに。
…烏月…、
あんたの声を…聞かせて、
そしてもう一度、…笑って…、
「………サクヤ…さん…」
微かな声が、聞こえた気がした。
白い手が、あたしの頬に触れた気がした。
それは幻の筈なのに、何故か…暖かくて。
烏月が笑っていた。
光の戻った目に涙を浮かべながら、震える手であたしの頬を撫でる。
夏の白昼夢なのか、その幻が、再び言葉を紡ぐ。
「サクヤ…さん、声、聞こえました。あなたと、桂さんの声が…」
「う、烏月…」
「違う…本当は…ずっと前から聞こえていたのに…私は、それに答えようとしなかった…」
「うづ…き、あんた…」
「あなたの…優しさに甘えて、桂さんの声に耳を塞いでいた…。
頑張れって、こんなの烏月さんらしくないよって、そう…何度も励ましてくれたのに…。
すまない…桂さん。そして…サクヤさん…今まで…ありがとう…」
潤んだ目のせいで表情がよく見えない、けれどそんな事、どうでもよかった。
烏月を抱きしめる。
確かに存在する命を、しっかりと、二度と離さない様に…。
「うっ、あぅ…烏月、良かった…よかったぁ。もう…こんなに、心配させやがって…。
あんた、馬鹿だよ…、大馬鹿だよっ!」
「はい、馬鹿です…大馬鹿です…。サクヤさん、サクヤ…さん、すみま…せん…でした…」
今日という日を、あたしは一生忘れない。
ハンカチを持って駆けて来る陽子には、後で説明が必要だろう。
どう話すか難しい所だが、ゆっくりと考えればいい。
随分と遠回りしたけど、あたし達は、また歩き出す事が出来たから。
「サクヤさん、あなたに、伝えたい事があります…」
烏月の声が聞こえ、その手が背中に回される。
「もし手遅れでないのなら…あなたの想いに答えたい。酷い我侭だというのは…分かっています。
それでも、どうか、答えさせて下さい。私は、ずっと…サクヤさんと共に生きたい…」
突然の告白に驚くが、烏月の声が震えているのに気づく。
拒否されたら…、そんな事を考えているのか、だとしたら本当の馬鹿だ…。
「手遅れなんかじゃないさ。それに、あんたが嫌がったって一生…離さないよ。
ずっと一緒だから、二人で…生きて行こう。…ついでに、あたしからも一言いいかい?」
耳元に口を寄せて、優しく囁く。
「…お帰り、烏月…」
END「千切れた糸・綻びを紡いで」